本 『新疆ウイグル自治区』 7/7

世界的に政治問題、人権問題と化している新疆ウイグル自治区をめぐる問題。中国共産党に組み込まれてからの歴史を中心に著したのが本書。

中国共産党は紀元前60年に新疆が中国版図に組み込まれたとするが、その後に様々な勢力の栄枯盛衰があった。それを無視して中国が直線的に版図として新疆を組み込んでいて、紀元前から中国のものであるという歴史認識は、幻想であろう。

清の時代18世紀中葉に乾隆帝の攻勢によって東トルキスタンが清の版図に入る。その後もムスリムによる反乱やさまざまな抵抗がある。辛亥革命後、民族自決ナショナリズムの時代である。ロシア革命も起こる。ウイグルという民族名称もこの時期もたらされた。ソ連で作られた名称がウイグルとして使われるようになった。このことからも、その後も続くソ連ロシアとウイグルのつながりを物語っている。

数ヶ月間ではあるが、「東トルキスタンイスラーム共和国」ができたりする。

国民党と共産党との対立の中で、満州出身の軍人・盛世才が新疆の実権を握る。この人が面白くて、ソ連、国民党、共産党にそれぞれ鞍替えしながら、内戦期を処世していく。ソ連、国民党、共産党というパワーの盛衰を見ながら機会主義的に、それぞれに擦り寄ったり離れたりする。小国の政治といった感じだ。漢人に対する反発としてソ連を使って漢人支配に対抗しようとする東トルキスタン共和国の動きもあった。パワーの中で、目的を達成していくために。しかしながら、国民党とソ連の手打ちによって、東トルキスタンソ連に半ば見捨てられることになってしまう。小国政治も悲劇といったことろか。さらに、共産党の内戦勝利によって共産党に組み込まれることになる。

毛沢東少数民族政策は、時代によって変わるが、少数民族を解放して自治を与えることで、統治の安定を目指すもので、自治重要性は認識されていた。少数民族の党幹部も多く採用された。

筆者は少数民族と民族統治エリートの研究をしているらしいので、共産党の新疆統治のための少数民族のエリートをどう使うのかという視点の記述に筆が立つ。

基本的には、少数民族の取り込みのために一定数の少数民族幹部を採用し、自治を持たせるような政策を行い、また同時に分離主義的運動を抑えるように同化主義的、抑圧的政策を取る。このバランスと振り子のもとで統治が行われている。

しかし異民族支配に対する反発は存在し、60年代大躍進政策による飢饉などによって不満蓄積される。また漢人比べて経済的貧民という不平等構造もある。

鄧小平のころの新疆政策は、不満の噴出に対して比較的穏健に融和的に対処する。しかし、90年代の江沢民以降の対テロや分離主義に対する警戒から、抑圧的政策を進める。さらにソ連解体に中央アジアの国々の独立による影響を警戒した。

新疆の経済的発展によって不満解消を目指すのが共産党中央の考えであるが、それはウイグルムスリムも感じる不満(子供数の制限、文化的制限)を解消するものではなかったと指摘する。

習近平時代になってからも抑圧的政策は強化される(父・習仲勲ウイグルに融和的政策を支持したことと反対であるのもおもしろい)。世界の新疆政策に対する目も厳しくなり(90、00年代は対テロ戦の文脈で欧米も無視してきた。)、批判の的となっている。

そして最後には、筆者の意見として、新疆政策を「ジェノサイド」と形容することへの違和感を示している。抑圧的政策にはさまざまなものがあり一括りにはできないこと、集団(民族)の破壊は意図していない(民族の改造を意図している)ことを論拠とする。

最後に、「反発したり抗議したりすることは許されない。ましてや独立を企んだりしてはならない。ただひたすらに中華民族の一員として、二等市民扱いを受けても、中国共産党の政策にただただ感謝して生きていかなければならない。そして政権側は、選別された現地ムスリムには社会的上昇の道を与える。そこに飛びつく人も出てくる。あらがえない同化の流れに押し流されるように、人々は生きていくほかない。「ジェノサイド」という言葉では表しきれない、生の苦しみがそこにあるのではないだろうか。」としめる。

この一文にすべてが詰まっている。そうすると、この一文のほとんどの部分が他の少数民族であれ、さらには漢族にだって当てはまるように思う。中国共産党という支配についてまわる問題なのだ。